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世界経済・金融危機80年+5年前後周期説


最近、あるチャート分析課が提唱する世界経済・金融危機84年周期説なるものに出くわしました。この説の概要は、世界の経済・金融危機は84年ごとに起きますが、その前後10年ずつ、計20年の許容範囲が設定されています。

ただ、この許容範囲は、危機の到来を正確に予測することができなかったときのためにあらかじめ予防線を張っておくというよりは、ある年を中心にその前後20年間に金融・経済に大変動が集中しておき、株価や金利も乱高下することが多いという意味で設定されています。

具体的には、直近の金融・経済危機は1932年±10年で起きています。その前の経済危機は1932年の84年前に当たる1848年±10年に起きていました。これを未来に向かって投影すると、次の危機は、2016年±10年で起きることになります。

この80年+前後周期説には、3つ大きなメリットがあります。まず、近代市場経済の歴史で最長の「不況期」だったと呼ばれる1873年~1996年の大デフレ期をみごとに無視していることです。この時期には、すでに世界をほぼ覆い尽くしていた市場経済の網の目に包摂されていた先進諸国と日本で実質労賃の安定的な上昇が起きていました。この「大不況期」は、先進諸国の勤労者にとっては実質所得上昇の黄金時代でした。

なぜこんなにいい時代が「大不況期」と呼ばれ得ていたかと言えば、慢性的なデフレの中で、貴族、大地主、金融業界はまさに不況にあえいでいたからです。デフレは、借りたカネを運用して富の蓄積を図る連中にとっては苦境以外の何ものでもありません。

そして、19世紀後半の経済で、いつでも、いくらでも、何度でも借金ができるのは、国家以外には貴族と大地主と、金融業者だけだったが、いずれもこの慢性デフレによって辛酸をなめました。

今でも似たようなものですが、「経済危機」を叫び立てる人間には2種類あって、当時の体制側は貴族、大地主、金融業界の直接・間接の庇護のもとにありました。一方、反体制派はこうした規制権力の中枢が揺らいでいるので、革命の好機と色めきたったようです。

特に、当時はマルクスやエンゲルス流の科学的社会主義が、経済学説としても社会運動としても最新だったので、デフレの兆しが表面化するとともに大げさに煽り立てたようです。

しかし、こうした体制・反体制それぞれに苦境やチャンスを大げさに言い立てることに利害を持っていた一握りの集団以外にとって1873年~1996年のデフレ期は、不況ではありませんでした。それは、実質賃金が確実に上がり続けるすばらしい時代だったからです。

2つ目の利点は、80年+前後という周期に論理的に明快な根拠があることです。この期間は、人間が3世代をかけて過ごす時間の平均値でもあります。創業の初代、守成の二代目、そして爛熟衰退の三代目というわけです。これは1家族の系譜でも、個人商店の家督継承でも、法人化した企業の経営でもほとんど変わらず、普遍的に通用する時間尺度だと思えます。

3つ目の利点は、同じように時代をさかのぼっていったとき、どの辺でまったく意味を失うかを明快に跡付けることができることです。人類の黎明期から未来永劫にわたって通用するサイクル説などというものは、まったく信用が置けません。しかし、どういう理由でどこまでさかのぼれるか、またどこまで未来に投影できるかが判断できるサイクル説は有用だと思われるのです。

こうして時代をさかのぼって、約80年ごとの金融・経済危機のサイクルを検証してみたのが、山口修編『ハンドブック年表世界史』(1992年、山川出版社)です。

まず、前半は「この年には危機サイクルで特別な都市としての意味はない」と明言できる1428年~1680年です。なぜ、1428年までさかのぼると意味がなくなるかというと、この時代にはヨーロッパ、中東、インド亜大陸、東アジアといった併存する文明圏が、相互にほぼ没交渉で、それぞれ独自の時間を刻んでいたからです。

それぞれが別箇の小宇宙だったのですから、世界全体を巻きこむ金融・経済危機も起きようがありません。果たせるかな、1428年±10年は、ヨーロッパにはヨーロッパの、そしてアジアにはアジアの流れはありましたが、ヨーロッパとアジアの相互交渉という視点で見ると、まったく独立した事象の羅列ということになります。

次の1512年±10年となると、明白に世界危機が起きています。スペイン・ポルトガルによる世界侵略と、ローマ・カトリックからのプロテスタントの離反だったのは絶対に偶然ではないでしょう。この2つの事象間の有機的な連関がどこにあるのかは、今は定かでありません。

その次の1596年±10年では、ヨーロッパの世界侵略の主導権が、イギリス・オランダに移るとともに、植民地経営が金銀財宝や香料の掠奪から、持続可能な農工業生産に移行します。また、この20年間の最後のほうにぎりぎり滑りこみでフランスが入ってきます。

一方、アジアでは、インドのムガール帝国も中国の大清帝国も異民族征服王朝だったのに比べて、日本の徳川政権は、同質の文明圏の中での統一権力の樹立だったことによって、のちにヨーロッパによる浸食に有効な抵抗を組織する基盤を確保していました。

さらに、最後の1680年±10年では、ヨーロッパの世界侵略の担い手が、西欧諸国から、ロシアや当時はまだイギリス・フランス領だったアメリカにまで広がるとともに、ようやくその他諸国側からヨーロッパによる侵略に対する抵抗が、インドのマラーター同盟として起きます。

イギリスで一連の自国民の人権保護制度が整備されていったのに対して、フランスでは新教徒の存在を容認したナントの勅令が廃止されました。そして、ヨーロッパ内で自国民の人権保護に注力した国ほど、その他世界の植民地化には成功するという皮肉な構図ができ上がっています。

そして、舞台は近世から近代に移行します。山口修編『ハンドブック年表世界史』では、1764年±10年の世界金融・経済危機は、第ゼロ次世界大戦とも呼ぶべき、世界中を舞台とした英仏間の七年戦争(1757~63年)を軸に展開していきます。

1757年には軟弱で淫蕩だった清国で、そのたった2年後からヨーロッパ列強、とくに台頭しつつあったロシア帝国に対抗する帝国主義的領土拡大の傾向が顕在化します。フランスやスペインが北米大陸に持つ植民地の浸食から十三州植民地を守りましたが、少なすぎる謝礼としてアメリカの植民地群にささやかな課税強化を持ちかけたイギリス王室は、植民地人たちの強硬な抵抗に驚愕します。そして、20世紀初頭にようやく決着がつき、英米による世界経済覇権をかけた150年戦争が、アメリカ独立戦争として幕を開けます。

1848年±10年には、ヨーロッパ勢力による世界征服がほぼ完成するとともに、そのヨーロッパ勢力の中で英米の覇権争奪がいっそう熾烈化します。ほぼ全面的にヨーロッパ諸国に屈服したアジア、アフリカ、中南米諸国の中で、ほぼ均質な文明圏の統一政権を維持してきた徳川幕府は、屈辱的な敗戦による強制された開国ではなく、外交交渉による部分的な開国を勝ち取ります。

1932年±10年は、あまりにも記載すべき事項が多いので、マイナス10年とプラス10年の2列に分けます。1932年-10年では、創業(1913年創設、1914年開業)直後に勃発した第一次世界大戦(1914~19年)で、協商国側(英仏伊露日)、同盟国側(独墺土)双方に軍事費の起債を可能とするほどの資金調達力を発揮したアメリカの連邦準備制度が、着々と世界単一覇権国家への歩みを進めるとともに、今度は初めから枢軸国(独日伊)が輪を敵と見なした第二次世界大戦向けの臨戦体制を構築します。

1941年の大東亜戦争開戦の詔勅にみなぎる「インドをイギリス支配から、インドネシアをオランダ支配から、そしてインドシナ半島を英仏共同支配から解放する」という決意には真実がこめられていたとしても、1922年~1931年の日本の東アジア戦略であった朝鮮半島の領有権確保には満州に友好国が存在することが不可欠で、この満州国の存続には中国本土を叩く必要がある」という論理は、欧米列強による世界侵略の論理の引き写しでしかなかったようです。

こうした中で1929年のニューヨーク株式市場大暴落に端を発した1930年代大不況は、決してデフレを併発したからあれほど悲惨な経済災害になったのではりません。アメリカが主要産業にそれぞれガリバー型寡占企業の成立を容認する利権国家だったからこそ、自動車産業のガリバーだったGMによる極端な生産縮小が、震源地であり世界再富裕国でもあったアメリカのGDP激減を招き、日欧各国を破滅的な第二次世界大戦へと誘いこんだのです。

1932年+10年は、1942年の連合国側26ヵ国の大西洋憲章実現の共同宣言で終わります。しかし、その後のすでに敗北が決定的になっていた1945年8月日本の広島・長崎への原爆投下、さらに負けるべくした負けた枢軸国側の戦後再建への主導権争いから、米ソ冷戦への筋書きまで、ほぼ忠実にアメリカの戦争目的どおりに進展しました。

1848年±10年を世界覇権国家アメリカの創業世代とすれば、1932年±10年が守成世代、そしてまさに今年、2016年を軸とする前後20年は、衰退世代となります。まだマイナス10年が終わったばかりの現状を見ても、また民主党ヒラリー・クリントン対共和党ドナルド・トランプという大統領選の顔ぶれを見ても、衰退の兆しは覆うべくもありません。また、立て続けに起きている金融危機は、1932年までのまだ近代国民国家同士の総力戦が実現可能だった時代の戦争に代わる富の蕩尽だという印象が強くあります。

最後に、これまで述べてきたこととはまったく別系統のデータである1517年~2014年という超長期のオランダ国債10年物の金利推移を見ても、今回取り上げた84年サイクル説は、ほかのさまざまな期間のサイクル説より信憑性が高いようです。

16世紀初頭からオランダ10年債の金利急騰のきっかけは、ほぼ一貫して84年サイクルで取り上げた特異年に起きていました。唯一の例外は、アメリカで1980年に金利が暴騰したことを予期したような1970年代からの金利急上昇です。

結局のところ、16世紀初頭以来の84年サイクルの金融・経済危機は、ヨーロッパによる世界侵略の中で、スペイン・ポルトガルが覇権を握り、オランダ・イギリスにその覇権が移り、イギリスが単独覇権国となり、英米覇権争奪戦のタネが蒔かれ、アメリカが単独覇権を確立し、その覇権が絶頂期を迎えた時期に起きていました。

2016年±10年の金融・経済危機は、ヨーロッパによる世界侵略の最終ランナーを務めたアメリカの手から覇権が滑り落ちるプロセスということになるでしょう。

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