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小さなブロック化が進む現代ヨーロッパ


小ブロック化は、誇大妄想としか評価しようのないユーロ圏の「超大国」化に比べれば、はるかに現実性の高い近未来予測でしょう。ギリシャを引き取ってやろうなどというおめでたい国はどこからも現れないだろうという冷酷な判断も含めて、EU・ユーロ圏解体後の世界がこうなる可能性は高そうです。

それにしても、イギリスがおそらくはアイルランドを引き連れて、ヨーロッパと大西洋を隔てた南北アメリカ大陸の両睨み体制で臨むだろうという読みは、イギリス本土であるブリテン島の地理的条件の良さを再認識させてくれます。まだ地政学という概念など影もかたちもなかった時代から、イギリスは地政学的な最善手を打ち続けたために、世界最強の海洋帝国を築いたなどという議論は、伝説に過ぎないでしょう。

大英帝国の隆盛と世界制覇にもっとも大きな力となったのは、ヨーロッパ大陸のすぐそばに隣接しながら、四囲を完全な自然国境で守られ、ヨーロッパ大陸に出て行くこともできますが、自国内に閉じこもることもできるという地の利だったのでしょう。

ただ、アイルランドの完全征服に800年を費やした異常な執念には、この優れた地理的環境を持った国が2つあっては希少性が落ちるから、アイルランド島だけは何がなんでも征服しなければならないという地政学的な執着が影響していたかもしれません。

そもそも、ヨーロッパとは一体何だったのでしょうか。ヨーロッパの語源は、オリンポスの主神ゼウスが、嫉妬深い妻ヘラの眼を盗むために純白の牡牛となって、美女エウロペを背に乗せ、最終的にクレタ島に落ち着くまでの愛の逃避行でエウロペを背に乗せて経めぐった地域ということになっています。

つまり、漠然とギリシャより西の国々ということです。現代においてヨーロッパと呼ばれている地域を言語系統別に塗り分けた地図で、いったいどのあたりが本来のヨーロッパということになっているのかを確認しておきましょう。

かなり大ざっぱな区分になっているので、見落としもいろいろありますが、その典型が、他のどのヨーロッパ系言語ともまったく違う構造を持ち、非常に古くから独自のことばと文化を守り続けてきたとされているフランス南西部からスペイン北東部に住むバスク語圏を省略していることでしょう。

大ざっぱだからこそ見えてくる特徴もあります。それは、ヨーロッパというときに我々が一般常識で思い浮かべるのは、ラテン語系、ゲルマン語系の2大勢力とその東側に隣接したポーランド、チェコ、ハンガリーといった中世にはカトリックが圧倒的に優勢だった国々だという事実です。

ふつうにヨーロッパと呼ぶとき、中世以降ギリシャ正教、セルビア正教、ロシア正教を信奉していた正教圏の国々を思い浮かべる人は少ないでしょう。とりあえず、ヨーロッパとは中世の宗教的権威がカトリックに一元化された文明圏だったということです。

気候的には、メキシコ湾からの暖流が大西洋岸に沿って流れこむので、北欧にいたるまで高い緯度の割には温かく、年間降雨量もほとんどの地域で穀物栽培に適した量を確保できます。しかし、イタリアのロンバルディア平原のような例外的な地域をのぞくと、人口支持力が小麦よりはるかに高い米の栽培を可能にするほど温暖でも降雨量が多くもないようです。

しかも、皮肉なことに古代においてメソポタミアとエジプトの2大文明の影響を受けてヨーロッパ随一の先進地域となったギリシャとイタリアという2つの半島国家群の大半は、乾燥していて傾斜も急で、オリーブやぶどうといったやせ地向きの作物の栽培には適しているが、穀物栽培には適さない地力の乏しい農地が多かったようです。

そこで、ヨーロッパ文明の本質がすでに見えてきます。まず、歴史の表舞台に登場したのが、自国領土内では支えきれないほどの人口水準に達するたびに、むき出しの武力侵略や武力を背景にした半強制的な貿易を周辺諸国に仕掛けるギリシャの都市国家群でした。

ギリシャ文明の中心地にあったアテネ、スパルタ、コリント、テーベといった都市国家群から見て西の辺境国家だったマケドニアのアレクサンダー大王が、これら都市国家群をすべて併呑して、エジプト、ペルシャ、北インドにいたる大帝国を築いたが、大王の死後その版図は有力武将たちによって分割されました。

イタリア半島内でも、先行していた華やかな文化を持つエトルリアなどを比較的後発のローマが軍事と土木の2大技術で屈服させた統一が成功した。ローマによるイタリア統一もまた、質実剛健の気風を維持する後発国の武力が文明の高度化によって「ひ弱」になった先進諸国を平伏させるというヨーロッパ的な信念を実証したかたちになりました。

共和政時代はもちろんのこと、帝政に移行してからのローマも、元首はあくまでも「民衆と、元老院と、軍隊の広範な支持によって推挙された」第一人者というだけで世襲の位ではないというフィクションを維持していた。

このフィクションのもとで、共和政なら第一執政官、帝政になってからなら皇帝の座に就くためにいちばん手っ取り早い方法は、ローマ本国から見て北西に住むガリア人、ケルト人といった蛮族相手に戦争を仕掛けて赫々たる戦果を上げ、いかにも蛮族らしく髭もじゃで屈強な体躯の族長を捕虜にして凱旋行進をすることでした。

当時の西欧諸国は中東に比べて格段に文明度が低く、戦争も個人の武勇に頼る傾向の強い部族のゆるやかな連合体相手だったので、景気のいい大勝利をローマ本国に報告しやすかったからだ。

ローマの食料安全保障の2大中心地は、毎年ほぼ同じ季節にナイル川がおだやかに氾濫して地味が豊かに保たれているエジプトと、現代で言えばウクライナ近辺の黒海とカスピ海に挟まれた植民地でした。このうち、当時の文明を基準として言えば「蛮族」の住む土地だったウクライナ方面は武力で獲得した領土です。

しかし、れっきとした文明圏だったエジプトのほうは、アレクサンダー大王の遺産を分割する際にエジプトを得た武将プトレマイオスを始祖とする王朝最後の女王クレオパトラが、カエサルの跡目を狙っていた野心満々のローマの武将アントニウスに国ごと身売りをしたことによって得た領土でした。

ローマの歴史では、3次にわたるポエニ戦争を経てカルタゴを滅亡させたことばかりが異常に強調されている。しかし、その理由はカルタゴの軍事力が優れていたことでもなければ、カルタゴの経済力が突出していたことでもありません。ローマが戦争を仕掛けて滅亡させた文明圏の国家は、後にも先にもカルタゴだけだったからこそ、あれだけ戦果を吹聴していたのでしょう。

そして、ウクライナの東に隣接するペルシャは、ローマにとって鬼門だった。ギリシャは都市国家時代にペルシャによる侵略を防ぎとめ、アレクサンダーの時代にはペルシャ全土を征服しました。しかし、ローマはペルシャと戦うたびに惨敗を重ねていました。

もし、ペルシャ皇帝がギリシャ・ローマ人によって描かれているとおりの、圧政によって思うままに臣民を戦争に駆り立て、世界征服の野心に燃えた暴君だったとしたら、ローマは滅亡させられていたかもしれません。

しかし、ギリシャ侵略戦争に失敗し、ギリシャ・ローマの経済力の低さも理解しはじめていたペルシャ皇帝は、西側への領土拡大を目指さなかったのです。今も、ウクライナから東南方向に位置するイランを始めとする中東諸国はヨーロッパにとって鬼門であり続けています。

1985年6月14日に、当時の欧州経済共同体の加盟10ヵ国のうちベルギー、フランス、ルクセンブルク、オランダ、西ドイツの5か国がルクセンブルクのシェンゲン付近に集まって、シェンゲン協定と称する文書に署名しました。

5年後の1990年には、シェンゲン協定施行協定も署名された。その趣旨は、調印国間では国境を超えた人の移動を検問所によって制限しない、つまり工業製品や農産物などの製商品ばかりか、人間の国境通過もノーチェックにするということだった。次の地図は、シェンゲン協定締結当初からのメンバー諸国を中心に描かれています。

しかし、関税の全廃のみならず、国境を超えた人の移動もノーチェックで許可しても大問題が起きないのは、ドイツ・フランスにベネルクス3国を加えた「ユーロ圏勝ち組5ヵ国」だけという判断はちょっと甘いかもしれません。それは、単にフランスも実態としては立派にユーロ圏の負け組に転落しているというだけのことではないでしょう。

そもそもユーロ圏全体、あるいはEU加盟国全体で国境を超えた人的移動の自由を達成するという目標は、国境をまたにかけてヨーロッパ諸国間を往来するのはヨーロッパ人(枠を目いっぱい広げても、せいぜい先進諸国民まで)だけという傲慢な思いこみがあったのではないでしょうか。

その後、シェンゲン協定調印国は増加し、東欧でも旧カトリック圏の大部分(つまり今回「ヨーロッパ」と規定した地域内の諸国)が調印済みとなっている。しかし、現実はシェンゲン協定の高い理想どおりには行かず、調印国同士であるはずのドイツとオーストリアの国境にも、オーストリア、ハンガリー、スロバキアの国境にも、検問所が存在しています。

そして、いざ中東諸国から大勢の難民が東欧圏を経てドイツへの流入を目指すという事態になると、難民が押し寄せてしまった諸国は少しでも早く他国に移動させようとし、次の目的地となる国は追い返そうとするという見苦しい争いが続発しています。

東欧諸国、とくに自国内の内戦の傷も癒えていない旧ユーゴスラビア連邦諸国が、難民は通過するだけでもかなり大きな経済的・社会的負担だと感じているのは、歴然たる事実です。しかし、最終目的地とされている西欧・中欧・北欧諸国までもが、この難民の殺到を「自国内でイスラム教信者を多数派としようとする『平和』な侵略部隊の進軍だ」というようなヒステリックな危機感をあおっています。

これは、従来ヨーロッパ諸国が建前として主張してきた自由とか平等とか人権尊重の姿勢の偽善性を暴露している。彼らは、こうした普遍的であるべき概念を、もともとヨーロッパ諸国民の間でしか適用しないつもりで言ってきたのでしょう。

イギリスのEU離脱騒動をきっかけとした株価急落の値戻しもほぼ終了し、世界中の主要株価指数の値動きが頭打ち状態に達していた7月第3週は、実は金融市場にとって地殻変動とも呼ぶべき大きな変化が起きた週でした。

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